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一発の銃弾アンネ・プロヴォースト (板屋嘉代子・訳) ランコが地下室に入ってきた瞬間に、わたしはこの子が母親を嫌っているとわかった。ランコは、薄暗がりの中すり減ってくぼんだ階段を降りてくる、母親のコートのベルトをつかんでいた。あの年齢の男の子にとっては、手をつなぐよりこのほうがまだ許せたのだ。もうすぐ下りきるというところで、母親が足を踏みはずしてバランスを崩した。奇妙なことに(非常識ともいえる)、ランコが母親を支えようとして動くことは一切なかった。ベルトからパッと手を離すと、母親が周りにあるものをつかもうとして手が空を切り、猛スピードで足を置き換えて重心を移動させ、結局ケガをすることなくバランスを立て直すのを、興味深げにすぐそばでただ見ていた。 「ここは滑るのよ、ミルサダさん」とお母さんが言いながら暗闇の中を駆け寄った。ランコは全く動かなかった。わたしたちの姿が見えていないことはわかっていた。まず目を慣らさなければならなかった。お母さんはランコを、みんなが寄り添って一列にしゃがんでいる壁へと連れてきた。これで総勢十名。この記録的な人数は、ここにはまだ保存食があるという根拠のないうわさが広まったせいだろう。 地下室の冷気にミルサダさんとランコはほっとしたようだった。手動式サイレンが鳴って、ふたりは急いでコートを着てきた。わたしたちはみんな暑くてもコートを着て避難する――この先 どうなるのか、どんな夜を過ごすのかわからないからだ。ミルサダさんは走って息が切れていた。ランコは大丈夫。 「あの人たちは誰?」ヴェセラがお母さんに尋ねるのが聞こえた。 「遠い親戚と息子さんなの」お母さんがささやいた。「まだここに着いたばかりで」 「あんまり大勢になったら、誰も眠れなくなるわよ」 わたしはお母さんがヴェセラに背を向けるのを見た。そして座ろうとしていたランコに、たたんだ毛布をそっと渡した。ランコはメガネをかけていて、いつも頬や耳を変に動かしてメガネを滑らせては中指で持ち上げていた。わたしたち子どもは冷凍庫の周りに集まるようになっていた。電気が止められてこの冷凍庫が使えなくなったばかりのころは、お母さんはここにひいおばあさんのアンティークの刺繍や数枚の手紙と本、他にも燃えやすい貴重品をぎゅうぎゅうに詰め込んでいた。他の家の地下室の空きスペースにもよるけど、わたしたちはたいてい三、四人でいた。取り決めたわけではないけど、お互いのことは何も聞かないというルールがあった。慎重になっていたわけではなくて、想像力のスイッチをオフにしていたからだ。他人のことにかかずらっている余裕なんて誰にもなかった。自分より運がいい子どもの話を聞かなくてすむようにと、つまりそれは自らの身を守るための方法だったのだ。 そのため誰もランコに何があったのか尋ねなかった。わたしたちはマッチでミカドゲームをして遊んだ。これをしていると子どもたちが静かなので、大人たちにとっては好ましいゲームだった。わたしたちにとっては骨の折れるゲームだった。地下室の明かりは乏しいわ、周りにはぶつくさ言うおばさんたちがいるわ、毛布が広げられてじゃまになるわで、とても集中しにくいからだ。ただでさえそうなのに、ランコがゲーム中に「ぼくが何を言っても母さんは聞かなくなったんだ」とか「ぼくは生きてるけど死んだようなものさ」という風にほのめかすのは、ルール違反だ。寝そべると他人の頭にぶつかりそうな状態で、寝入りばなに暗闇の中でささやくように話しかけてくるのは、ルール違反が疑わしいけどまだ許せた。ランコはわたしたち全員をとても困らせた。 ゲームにはタバコを賭けていた。誰もタバコを吸わなかったし、フィルターが折れまがって巻紙のあちこちからタバコの葉が飛び出していたけど、クッキーやリンゴはもうとっくに底をついていたので、ゲームをおもしろくするにはそれしかなかった。この数週間でわたしはミカドゲームのチャンピオンになった。今ではめったに負けなくなって、負けるとしても理由があった。おなかが減って手が震えたとか、誰かが泣いていて気が散ったとかだ。ところで、ゲームにはた いていルール上の勝者とほんとうの勝者がいた。ルール上の勝者は、ゲームの最後に一番たくさんマッチを持っている人で、ほんとうの勝者は、他の子と違って銃撃が収まるまで待たずに、機関銃が鳴り響く中でも手が震えるようなこともなくマッチを取る人だ。今回は最初からランコがどっちの勝者にもなるだろうということは明らかだった。ランコはタバコを受け取った。わたしの家の地下室にいたので、ゲームの後すぐにランコをちょっと連れ出した。わたしたちはほぼ同じ身長で、それがそうすぐには変わらないことはわかっていた。戦争はわたしたちの生活を停止させ、ここの子どもたちはみんな成長が止まっていた。ランコがゲーム中にほのめかしたせいで、最小限のリードで(全部でマッチわずか三本差)わたしが勝ったという事実から、わたしはこの質問をする権利を得た。 「あなたのお父さんはどこにいるの?」 ランコはメガネの奥からわたしを見た。まるで涙腺がないみたいに、目にはほとんど艶がなかった。「わからないんだ」ランコは答えた。 「じゃあ兄弟は?」 「ひとりだけ。でも死んじゃった」 「弟? それともお兄さん?」 「兄さん。でも見分けられないよ。一歳しか違わないから」 わたしたちの周りには、靴底にへばりついた排泄物が悪臭を放っていた――水がなくなってからというもの、みんな花壇や庭で用を足し、今やそこには大便が隙間なく横たわっているので、飛び越えることのできる者だけが大便を避けることに成功した。 「でもまだおじさんがいるんだ」突然ランコはむせたような甲高い声で言った。両手でシャツのボタン穴をさすっている。「おじさんはここからそう遠くないところに住んでいて、地下室にはいろんな物がいっぱいあるんだ」 「へえ」いろんな物が何なのか聞きたかったわけじゃないけど、一瞬突拍子もない想像をして声が口をついた。 「明日の朝早くぼくたちはそっちへ行くんだ。日が昇ったらすぐに」ランコは今は薄明かりしか入ってこない地下室の窓を指した。 「もし敵が攻撃してこなかったら、でしょ」とわたしは言った。 冷凍庫の周りにいた子どもたちはそれぞれのお母さんのもとへと帰っていった。ミルサダさんは、エサを探して足で土をひっかいているにわとりみたいに、その場をぐるりと回った。 「やつらは攻撃してこないよ。ぼく、図を描いて調べているんだ。攻撃は定期的なんだよ。だから 明日の朝やつらは攻撃しないよ」まるでランコの言葉を裏づけるように、その夜最後の砲弾が至近距離に撃ち込まれた。 ミルサダさんは、ランコが自分の隣で横にならなかったことを驚いていないように見えた。ランコは体に毛布を巻きつけ、わたしの寝床の頭側にひざを抱えて座った。「これで十分だよ」ランコはとがめようとしたお母さんに向かって言った。 夜更けに、病気のもう百歳近いメルダの咳で目が覚めたわたしは、倒れ込んだランコの頭がわたしの頭に寄りかかっていることに気づいた。 翌朝早くランコはもう窓から外を眺めていた。静かな、霧に煙る雨の朝だった。わたしがそばに行ったら踵を返して、うめきながら眠っている母親のところへ行った。窓がわたしの吐息で曇った。 「母さん、出発するよ」ランコは母親を足でつつきながら言った。すぐには動かなかったので同じ言葉をもっと大きな声で繰り返したら、ヴェセラとお母さんが次々に寝返りを打った。母親はようやく目を開け、手をバタつかせながら腕を曲げて起き上がった。自分の姿を見て、着ていたブラウスを整えた。 「まだ暗いじゃないの」母親は声を詰まらせながら言った。 「もう行く時間だよ」とランコは返した。外では鳥のさえずりとともに、機関銃が鳴り響きだした。 それでもふたりは出発した。ランコが押し切ったのだ。地下室にいた人たちがふたりの口げんかで目を覚まし、押し合いへし合いして窓へと詰めかけた。ランコと母親が階段を上がり、表玄関伝いに家を出るまでにしばらく時間がかかった。その間わたしの周りでは大人たちの早口なささやき声やため息、疑いの声が飛び交っていた。それはほとんど聞き取れないほど早口だった。 唯一ヴェセラの言ったことだけはわかった――「母親というものはいつでも一番目の子を選ぶものよ。それをあの子が責めることはできないわね」 その時ふたりが通りに出てきた。ランコは無頓着に例のタバコをくわえていて、異様な光の中で幽霊のように見えた。母親のコートを身にまとっていた。この霧深い、リンゴと煙のにおいがする朝に、子どもっぽい本能を何か別のものに変えようと決意しているように見えた。攻撃が激しくなった。ミルサダさんは壁に身を寄せたけど、ランコは落ち着き払って最前線を歩き続けた。時どき興味津々な様子で周りを見渡して、まるで榴弾の弾片か銃弾を待ち望みながら、なぜ自分の分析が外れて今朝攻撃してきたのか、突きとめようとしているようだった。ランコは水たまりに映る自分の影を追いながら歩いた。何かが起きることはわかっていた。前にも動きがすば やくない人たちが、ランコと同じようなことをしたのを見たことがある。メガネがランコの血の海に落ちることになる。 何も起きなかった。ランコは落ち着いて、慌てず、時には何かを拾い上げたり、タバコを確認するために立ち止まりながら、霧の中へと消えた。ずいぶん経ってから事情を知った。ふたりがここに来る四日前、兵士たちが夜明け前に襲撃してきた。敵は殺害をゲームにした。弾があとひとつしかないと言い張って、ミルサダさんを暴行した後でどっちの息子を残したいか選ばせたのだ。誰も詳しいことは知らない。でもわたしにはミルサダさんがどんなに絶望していたか、選択を拒む母親の姿が目に浮かんだ。ふたりとも死ぬことになるぞと脅されて、どうしようもなくただふたりのうちひとりを指名するしかなかった。母親は長男を選んだのだ。すると兵士たちはあざけるようにゲームのルールを変更した。勘違いをしていたと言いだし、母親が選んだ方の息子を、頭を守るために上げていた両手の上から顔をめがけて発砲し、下着姿でそばにいたランコの目の前で撃ち殺した。これが敵のやり方だ。ミルサダさんが、たった一発の銃弾でふたりの息子を失うように仕向けたのだ。 その後わたしたちはランコに再会した。いつも不意に、そして最も危険な時にやってきた。ランコは極端に奇妙なほど明るかった。ランコが来ると空気が華やぎ、帰った後も数時間その雰囲 気が漂っているので、わたしたちはランコが来るのを楽しみにしていた。時どき母親も一緒だった。ランコが得意げに、夜中の探検についてや、どうやって敵の目を盗んで食糧の入った大箱をこっちの家からあっちの家へと移動させるか、といった話をするのを聞いていた。わたしたちはランコの話に聞きほれて笑った。母親の顔からは、どんなにひどい話をしていてもうすら笑いが消えることはなかった。 Hoofdpagina's: ZonKijken | Arkvaarders | Roos&zwijn | Vallen | Grindewal | Springdag | Beminde Ongelovigen |
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